<コロナに翻弄された人たち:2020年を振り返る>
マラソンは「五輪の華」といわれる。8月9日は男子マラソンが東京オリンピック(五輪)の最終日を彩っているはずだった。昨年9月15日の代表選考会マラソン・グランドチャンピオンシップ(MGC)を制したのが中村匠吾(27=富士通)だ。新型コロナウイルスの影響で五輪は1年延期が決まり、練習も制限を余儀なくされた春。そんな時、自然と気持ちを奮い立たせてくれる贈り物が届いた。
玄関に飾られた木彫りのレリーフの文字
緊急事態宣言が発令され、モチベーション維持も難しい。そんな春。中村の自宅に宅配便が届いた。開けてみると、木彫りのレリーフがあった。こう文字が刻まれていた。
「激流のなかの木の葉のごとく」
約10年前、自宅から片道2時間をかけ、三重・上野工高(現伊賀白鳳)に通った。当時の恩師が町野英二さん。もう今は会えない。12年6月23日。肝臓がんで亡くなった。まだ62歳だった。その師から何度も何度も言われたのは「激流のなかの木の葉のごとく、うまくレースを進めなさい」。同じく上野工で指導を受けていた恵村正大顧問から贈られた木彫りは、その言葉の一部だった。
優勝したMGCは、それを体現した結果だった。終盤まで流れに乗り、集団の中に潜む。うまくレースを進めると、最後の上り坂で一番、力が残っていた。服部、大迫を引き離し、勝利のゴールテープを切った。
一躍名を上げた2週間後、中村は地元の三重に戻った。町野さんの墓前で手を合わせ、目を閉じた。「気を引き締め、これからもやりなさい」。もし町野先生が生きていたら、こう言われるだろう-。だから「しっかり練習を積み、本番にいい状態で立ちます」と報告した。
振り返れば、多くの町野先生の言葉に支えられた。無名の時から「お前は将来、マラソンで日の丸を背負って勝負できる選手だ」と励まされた。それを信じ、必死に努力を続けた。高3時の全国高校駅伝は1区を任されるも、直前の故障が響き区間44位。当時から入退院を繰り返していた「町野先生に初のメダルを」-。その目標を実現できるチームだったのに23位。自責の念につぶされた時は、こう声をかけられた。「一番苦しいのは中村だから。その気持ちを半分でも(先生が)もらえるのなら、お前は楽になれるんじゃないかな」。今も鮮明に覚えている。前を向く力になった。
届いた木彫りは玄関に飾っている。練習の前後はもちろん、日常で必ず通る場所。毎日、自然と視界に入る。恩師の面影、愛情に満ちた声、今を支える言葉が思い起こされる。
「見ると、気持ちも入り、1年後の東京五輪へ向けて頑張ろうとなるんです」
そして中村は誓う。
「ようやく来年、恩返しできる機会。1年しっかり準備をして、天国から見守ってもらえたらうれしい」
スポーツの影が薄い夏。ただ気持ちはまったく途切れていない。【上田悠太】
◆中村匠吾(なかむら・しょうご)1992年(平4)9月16日、三重県四日市市生まれ。駒大では主将を務め、現在も同大の大八木弘明監督の指導を受け続ける。箱根駅伝は2年時から順に3区区間3位、1区区間2位、1区区間賞。15年4月に富士通へ入社し、初マラソンとなる18年びわ湖毎日で日本人トップの7位、同年のベルリンでは2時間8分16秒の自己記録。好きな食べ物は焼き肉、すし。173センチ、55キロ。
(2020年8月9日、ニッカンスポーツ・コム「幻の20年夏」)