各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。ロッテ益田直也投手(31)は昨年、絶対的なクローザーとして緊迫の場面を何度も切り抜け、優勝争いを演じる立役者となった。選手会長として、コロナ禍に見舞われたチームを前へ前へともり立てた。少年時代は来る日も来る日も、白球を追っていた。オンライン取材で回想してもらった。
プロ9年目は、忘れられない1年になった。ロッテ益田は昨年8月7日のオリックス戦(京セラドーム大阪)で、通算100セーブを達成した。そこから1カ月もたたない8月28日、またしても大阪でのオリックス戦で、通算500試合登板を達成した。
真夏にやって来た2度の節目に、ともに声に出した言葉がある。
「丈夫に産んでくれた母に感謝したいです」
しっかり言おうと、心に準備していた感謝だった。「自分の長所はケガをしないこと。野球選手はケガをしないのが一番なので。痛いと投げられない。ケガをすると野球ができない」。中学生でも肘にメスを入れることがある時代。ケガなしで投げ続けることが、いかに難しいか。
母しのぶさんが、野球の原点にいる。大人になっても覚えている、黄色くて、にぎやかなスタジアム。「母が阪神ファンで、何度か甲子園に行ってました。たぶん外野席だったと思います」。誰が出場していたかはおろか、当時はルールもよく分からなかった。熱気のすごさが記憶に残る。
サッカーにも興味があった。仲の良い友達に誘われ、とりあえず少年野球の練習に行ってみた。「その時も野球をやることには全く興味なかったんですよ。ルールも一から覚えなきゃいけない感じでしたし」。それがどんどん楽しくなる。「プロ野球選手になりたい」と母に誓った。ちょうどJリーグが開幕したばかりの時代。少年少女が興味を持つスポーツも多様化した。益田少年の野球との出会いも、とりたてて珍しいエピソードではない。
野球熱の高い環境は幸運だった。和歌山市から東へひと山越えた貴志川町(現・紀の川市貴志川町)で生まれた。イチゴ栽培が盛んな町。しかし、貴志川の野球に甘さはなかった。「ぼくがやっていたころから、レベルは高かったです」。日本ハムの西川遥輝外野手(28)も同郷だ。
西貴志小2年時に入団した「西貴志レッドボーイズ」は、厳しい練習で有名だった。練習の休みはほとんどない。「年末年始くらいですかね。平日も雨の日も、暗くなるまでずっと練習でした」。6時間授業の日は、白い練習着に着替えてそのまますぐに校庭で。雨の日は体育館。4時間授業の日は1度帰宅し、近隣の広いグラウンドでの猛練習が待っていた。
当たり前と思っていた。「周りのチームが週2、3回しか練習していないなんて知らなかった」。今に残るものは、と尋ねると「内容というより、毎日練習をするという習慣ですかね」と即答した。「練習しないとうまくならないって、ずっと思ってました。厳しかったけれど、その考えが身に付いたのが間違いなく今に生きています」。耐え抜けたのも、授かった丈夫な体があったから。
夢をかなえ、キャリアを積んでも、習慣は続ける。この夏もどんなに暑くても長袖を着て走り、コンディションを整えた。チーム関係者も「あれができるからすごい」とほめる。責任の重い職場だ。「みんなが、頼むって見てる。9回の守備は、同じ1回でも重みが違う。そこを任される以上、無責任なことはできないし、無責任な球は投げられない」。自分への厳しさも少年時代に培った。
でも、1人じゃない。マウンドに上がるとき、いつも帽子のひさしに触り、じっと目をつぶる。ひさしに書いた、愛する家族のイニシャル。「今日も頑張る。チームのために絶対に勝つ」と刻み込む。母のため、家族のため、仲間のため。使命感にあふれながら、これからも投げ抜く。【金子真仁】
◆益田直也(ますだ・なおや)1989年(平元)10月25日、和歌山県生まれ。市和歌山商では遊撃手の控えで3年夏に県4強。甲子園出場なし。関西国際大で投手に転向。11年ドラフト4位でロッテ入り。1年目に新人最多72試合で41ホールドをマークし新人王。翌13年に最多セーブ。今年8月7日に通算100セーブを達成。178センチ、80キロ。右投げ右打ち。今季推定年俸2億円。
(2020年10月17日、ニッカンスポーツ・コム掲載)