西武の主将・源田壮亮内野手(28)が誇る守備の原点を探った。各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。侍ジャパンの一員として、日本を代表する遊撃手となった源田。そのグラブさばきから、無駄のない送球まで、華麗なる一連の動作で、ファンを「源田たまらん」と魅了する。そのルーツは、ソフトボールで培われた小学校時代にあった。
最初の1歩は、野球ではなくソフトボールだった。大分・明野で生まれ育った源田は、小学校3年生のとき2歳年上の兄とソフトボールを始めた。「僕が住んでいた地域は、ほぼほぼ少年野球がなくて、ソフトボールがいっぱいある地域でした。兄と一緒にソフトボールチームに入ったのが始まりでした」。週3日がソフトボールの練習日。日本を代表する遊撃手となる源田は、少年時代野球の硬式球よりも一回り大きく、重い球を追いかけていた。
ポジションは今と同じ遊撃手。塁間が少年野球の23メートルに比べ、16・76メートルと短いソフトボールで、自然と守備の基礎が培われた。
源田 単純に塁間がソフトボールは短い。なので、ボールを捕ったらすぐに投げないといけない。ちょっとステップが多かったりするとセーフになるので。とにかく(打球に対し)前に出る。ボールにできるだけ早くいって、できるだけ早く捕る。捕ってすぐ投げる習慣はソフトボールでできたと思います。
プロ野球界を見渡しても、源田ほど打球を捕球してから投げるまでの動作が速い選手はいない。守備範囲も広く、まさに職人技の美技に、隣で三塁を守る中村が「ゲンのおかげでどれだけのヒットがアウトになっていることか」と証言するほど。一連の流れるような動きに、ファンも「源田たまらん」とSNSなどで発信する。他に類を見ない守備の総合力は、ソフトボールが原点だった。しかし、中学入学と同時にボーイズリーグで野球に転向すると、最初はとまどった。
源田 全然違いました。ボールも小さい。塁間もめっちゃ遠い。リードの仕方も分からなくて、初めてけん制がくる。今でも鮮明に覚えているのが、実戦練習でずっと一塁ベース見ながらリードしていたら、その間にけん制投げられアウトになった。打席でもソフトボールは(投手が)下から投げて、(打者は)上からたたくって感じ。僕は上から切るようなスイングを直さないといけなかった。
苦労はしたが、必死に適応した。人一倍工夫しないと、試合に出られないと分かっていたからだった。
源田 僕は足は速い方でしたけど、すごく背が小さくて、パワーもなかった。背の順はずっと一番前くらい。中学3年の最後の大会で測ったとき、150センチ台だから、めっちゃ小さい。だからセーフティー(バント)したり、守備を頑張ろうって思っていました。とにかく「どうやったら試合出られるか」を考えながらでした。体が大きい人たちには、どうしてもパワーじゃ勝てないですから。
少し遅れて芽が出始めたのは高校2年の冬だった。3年生の春にかけて急激に身長が伸びた。大きくなるために食べることは続けていた。打球は強く、遠くに飛ぶようになっていった。小回りがきく小柄な守備のうまい選手から脱却し、体の成長を機に人生が変わった。やるべきことを怠らず、努力が実を結んだ。
源田 最後の最後でガンって伸びてくれて、本当によかったな~って。高校で野球辞めようかと思っていたんで、高校3年なったら就職先どうしようかと考えていたら、身長伸びてくれて。野球を続けられるなら続けたいなと思うようになりました。
進学した愛知学院大から社会人野球の名門・トヨタ自動車を経て17年にプロ入り。今、振り返ればベストな選択をできたのも、両親のおかげだと感謝する。小中学校時代、バッティングセンターにいきたいと、父の仕事場に電話をかけていた。帰宅後に仕事で疲れたそぶりも見せずに連れて行ってくれた。
源田 疲れたから無理と言われたことがないです。車で20分くらいのところで、気の済むまで打たせてくれた。帰るぞと言われたこともない。今思うと、けっこう大変だったんじゃないかなって思うんです。ノビノビ育ててもらったと思います。強制されることはほとんどなく、でも僕がやりたいといったことは、力になってくれました。
恩返しの気持ちは、大きくなった今でもずっと忘れていない。【栗田成芳】
◆源田壮亮(げんだ・そうすけ)1993年(平5)2月16日、大分市生まれ。大分商-愛知学院大-トヨタ自動車。16年ドラフト3位で西武入団。ルーキーイヤーの17年に全イニング出場を達成して新人王を獲得。18、19年はチームの連覇に貢献。ベストナイン、ゴールデングラブ賞は18~20年まで3年連続受賞。19年プレミア12日本代表。今季推定年俸1億5000万円。179センチ、75キロ。右投げ左打ち。
(2020年12月12日、ニッカンスポーツ・コム掲載)