<東京五輪がやってくる>
試合の前から始まるさまざまな駆け引き。競泳では選手がレース直前に集合する招集所でもドラマがある。また計量会場、入場口など試合に備えるエリアでも、さまざまな心理戦が繰り広げられている。あなたが見ている、アスリートの真剣勝負。実は始まる前に決着がついているかもしれない。新旧オリンピック(五輪)選手のエピソードを紹介する。
“風”格の巻「決闘の気迫」競泳・北島康介
北島康介は、ライバルをずっと見ていた。04年アテネ五輪男子100メートル平泳ぎ決勝。練習場からブレンダン・ハンセン(米国)を凝視。1カ月前に世界記録を更新されたライバル。「目を合わせてこない。何より言葉は悪いけど『ぶっ殺す』ぐらいの気迫だった」。優位にあることを確信したのはレース直前。「コース台に上がる位置がいつもとは逆。こいつ緊張している」。金メダルで「チョー気持ちいい」が飛び出した。引退して5年の北島氏は「ハンセンは世界記録を出した後は態度が大きくなった。でも不安そうだと小さく見える。相手にどれだけ自分を意識させるか。やっぱり勝てないと思わせること。それが絶対王者の条件」と勝負のあやを語った。一方で「でも僕は絶対王者じゃなかった。勝つか、負けるか。そういうハラハラ感で皆さんが興奮してくれたのかな」と振り返った。【益田一弘】
“水”面の巻「信は力なり」競泳・鈴木大地
88年ソウル五輪男子100メートル背泳ぎ決勝。招集所に緊張感と沈黙が満ちていた。当時21歳の鈴木大地は、同じく決勝に出場する田中穂徳と特に言葉はかわさなかった。いよいよプールに向かう直前、田中から健闘を誓い合う意味で、右手を差し出された。しかしぬっと伸びてきた手でそれを握っていたのは、隣に座っていたバーコフだった。デビット・バーコフ(米国)は予選で世界新をマーク。ばりばりの優勝候補だった。しかし田中の右手を握ったバーコフは顔面が真っ青で、目はうつろだった。「とても戦う選手の表情ではなかった」と田中。鈴木は持ちタイムで1秒以上劣ったが、直接対決で負けたことはなかった。バーコフによる世界新のビデオを見ても「おれ、こいつには負けませんよ」と鈴木陽二コーチに言ったという。「バサロ」を25メートルから30メートルに伸ばした秘策で金をもぎとったのは必然だった。
“空”間の巻「怪物の所作」競泳・三木二郎
04年8月14日、アテネ五輪競泳男子400メートル個人メドレー決勝。当時21歳の三木二郎(現日大コーチ)は招集所にいた。レースに出る選手が最後に点呼される場所。コーチらから最後の見送りを受けて、招集所からトップ8人だけの空間になる。三木は「皆が人生をかけて挑んでくる」。ピリピリした緊張感があった。その中でひときわ大きな男が思わぬ行動に出た。1人1人に「グッドラック」「グッドラック」と握手を求めていく。三木は「何がグッドラックやねん」とカチンときた。「怪物」マイケル・フェルプス(米国)だった。「余裕をぶっこいていた。皆に『自分が勝つレースだよ』と言い聞かせたかったのかもしれない」と三木。フェルプスは4分8秒26で金メダル。7位の三木は「金を争う選手は自己ベストが高いレベルにある。僕は決勝に残れるかどうか。余裕がなかった」。怪物の余裕はライバルたちにプレッシャーを与えた。
香“水”の巻「臭わせ返し」柔道・向翔一郎
柔道では「臭(にお)い」も武器となる。試合で組んだ際に、汗を含んだ柔道着に触れると独特の臭いが鼻に突く。東京五輪男子90キロ級代表の向翔一郎(25=ALSOK)は試合前夜、海外勢の臭い対策としてお気に入りの香水を道着にかける。「なぜか海外選手は汗をかいても道着を洗わないで香水をつける。試合で脇を持ったり、寝技をかけたりするとその臭いが強烈で…」と苦笑い。多くの日本代表はこだわりの柔軟剤を使って洗濯しているが「臭いが弱く道着もペラペラになる」として、向は臭いでも相手を制圧するために“香水戦術”をとっている。【峯岸佑樹】
“火”花の巻「割込み御免」レスリング・屋比久翔平
試合の朝に計量が行われるレスリング。そこでは「横入り」がたびたび見られるという。先の東京五輪アジア予選で代表権を手にした男子グレコローマンスタイル77キロ級の屋比久翔平(26=ALSOK)は「体重を量るために列に並んでいると、堂々と横から割り込んでくる選手がいます」と証言する。過酷な減量、一刻も早く何かを口にしたい。その思いは皆同じだが、ずぶといというか、節操がないというか…。列車の乗り方1つでもきちんと列に並ぶのが日本だが、海外ではさまざま。ライバルより早く楽になりたいというけん制も含め、計量会場には毎回、「列争い」が繰り広げられている。【阿部健吾】
境“地”の巻「沈黙は金」陸上・飯塚翔太
国内における陸上男子短距離の招集場は、周囲との駆け引きよりも、自分の世界に入り込むことを重視するようだ。飯塚翔太(29=ミズノ)は「特に100メートルは、みな基本的に走り終わるまで一言も話さない。レースのイメージを高め、集中を解きたくないとの意味が大きい」。海外は少し勝手が違うようで「特にアフリカの選手は仲のいい人同士で歌ったり踊ったり、ワイワイしている」という。ただ時代によって変化する部分もあり、過去には相手を目で威嚇したり、やや横柄な態度で“風格”を出し、その場の空気を支配しようとした人もいたようだ。【上田悠太】
(2021年4月23日、ニッカンスポーツ・コム掲載)