<鍋の力/下>
トップアスリートでさえ、食事に対して高い意識を持ち続けることは難しい。ただ、意識が変われば結果はついてくる。その成果が今、如実に表れているのがバドミントン日本代表だ。奥原希望ら東京五輪(オリンピック)の金メダル候補たちも最初から世界のトップに位置していたわけではない。特に海外の遠征先での食事は課題だった。そこで取り組んだ大胆な挑戦は「鍋」を作ることだった。一般家庭でも取り入れられる試みとは…。
包丁まな板、フライパンも火もいらない
トップアスリートが日々、研さんを積む東京・北区の味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)。そのバドミントンの体育館が調理実習の場となったのは、2017年3月ごろだった。
体育館を、海外など遠征先のホテルと想定する。包丁などの調理器具や火器類など満足な調理環境がないことは、まさにホテルと一緒だった。その中で用意した食材とどう闘うか。期待と不安を抱きながら実習に臨む選手たち。そこで、味の素ビクトリープロジェクト(VP)の上野祐輝氏が食事全体の景色をイメージさせた。
「鍋(汁物)に野菜(副菜)とタンパク質(主菜)を入れ、そして米(主食)を加えれば『5つの輪』のうち、4つの要素がそろう。ヨーグルトを買ってくれば、もうOKです」
その上で次のように伝えていった。
・タンパク質は缶詰で摂れる。
・野菜は手で割くことができる。
・現地でハサミを買えばなおのことOK。
包丁やまな板がなくても、フライパンも火もなくとも、簡単に調理できることを選手たちは知った。
そうすると後は簡単だった。
「おいしいですね」
NTCの体育館ですら、身も心も満足させられる調理場に早変わりした。
手間ひまが増えても継続できているワケ
その夏に英国グラスゴーで開かれた世界選手権へ、上野氏ら味の素VPチームが初めて同行した。彼らが毎晩用意した具材を、選手は自分たちのクッカーに入れて火をつける。大会期間中の2週間ずっと実施した。
それまで欧州の食事といえば主に外食だった。ただ、調理法や味付けの違いもあって、脂っこい食事にあたるときもある。翌朝になっても消化が間に合わず、胃の中に食べ物が残った感覚で試合に臨む選手もいた。
それが思いのほかスッキリした朝に変わっていた。満足感ある食事なのに、翌日に残らない。体の軽さが実感できた選手たちは躍動した。奥原希望の女子シングルス日本人初優勝など金1個、銀1個、銅2個と、世界選手権で過去最多となる4個のメダルを獲得した。
以来、欧州遠征で自炊できる環境のときは自分たちで食材を買い、自分たちで調理するように変わっていった。
女子選手から始まった取り組みは桃田賢斗ら男子選手にも波及した。海外では野菜の瓶詰めなども種類が豊富で、鍋に入れる食材や野菜の切り方にこだわる選手も出てきた。鍋とリゾットを作る人もいた。選手同士の鍋会は、もはや恒例行事となっている。
2016年のリオデジャネイロ五輪前後まで「自炊=米を炊く」ことだった視野は、だいぶ広がった。レトルトで済ましていた以前よりも手間暇は増えている。それでも継続できているのは「食事によってコンディションが変わることを実感できている」からに、ほかならない。
大切なのは必要な栄養を手軽に摂ること
家庭で「鍋」を作ると、手抜きだというイメージはまだある。だが、必要な栄養素をどれだけ手軽にそろえるかが、継続していく上で何よりも大切になると、上野氏は強調する。
選手らは味の素製品「鍋キューブ」で複数の味を用い、缶詰の種類もツナやサバなど好みで中身を変えているという。こうしたことで遠征中も飽きが来ない。
簡単な準備に対して、栄養摂取のバランスの良さが際立つ鍋料理。
ちなみに前回紹介したハンドボール女子日本代表も、過去最高順位だった2019年世界選手権(熊本)では宿泊したホテルにリクエストして、夕食に具だくさんの汁物=鍋が提供されていた。
もはや、日本の新たなお家芸とも言えるバドミントン。その裏には「鍋」の力もあった―。そう例えても、決して言いすぎではない。【今村健人】