和食が「ユネスコ無形文化遺産」に登録されて以来、世界の注目を集めている。2020年東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は選手村などの「飲食計画」を検討しているが、「日本の食文化」を、いかに世界にアピールするかが課題の1つ。組織委の「飲食戦略検討会議」の委員で、帝国ホテル総料理長の田中健一郎氏(67)が取材に応じ、日本を代表する料理人として「五輪『金』メニュー」へ、熱い思いを語った。【三須一紀】

総料理長室で取材に応じる帝国ホテルの田中健一郎総料理長
総料理長室で取材に応じる帝国ホテルの田中健一郎総料理長

「大量供給」と「料理界の英知」

 「おもてなしの国」が提供する選手村の食事メニューはどうなるのか。世界中が注目していると言っても過言ではない。

 「訪日外国人が訪日前に期待していたこと」の1位が「日本食を食べること(69・7%)」(15年度、観光庁調べ)。「外国人が好きな外国料理」の1位も「日本料理(66・3%)」(14年3月、日本貿易振興機構調査)という日本食ブームの中、20年東京大会はやって来るのだから。

 12年ロンドン大会のピーク時には30分間に1万食を提供。1964年の東京大会では帝国ホテルなどのシェフが選手村の料理長を務め、食堂を運営したが、時代は変わった。大量供給が重要となり今回は、ケータリング会社が運営を担う予定だ。

 18年度に入札を実施し、運営事業者を決めるが、組織委によるとメニューもまず、同事業者が考案するという。メニューや食堂運営計画の正式決定は19年度の予定だが、田中氏はその過程に、料理界の英知も注入すべきと考えている。

 「食の日本らしさを出し、大会後に『日本の食事は本当にすばらしい』という評価を得るためには、やるべきことがまだまだ、たくさんある」。大量提供と比べ、顔が見える客に日々、相対で料理を出してきたシェフや板前らの匠(たくみ)の技や知見が、東京大会の「食」を成功させる上で必要不可欠だという。

全国から料理人が集結

 64年大会では、日本ホテル協会が食堂運営を受託。その1人が帝国ホテルの村上信夫元総料理長(05年死去、享年84)だった。同協会の加盟ホテルに加え、司厨士(しちゅうし)協会など全国から協力者を集め、306人が結集。しかし、現在のように洋食が普及しておらず、そば店、とんかつ店など洋食調理の経験がない料理人も大勢来たため、ホワイトソースやデミグラスソースの作り方が分からない者も多かった。

 そこで門外不出である帝国ホテルの宴会メニューのルセット(調理法)などを開示。地方から来た料理人は大会後、それを基に地元に洋食を普及させた。諸外国の一部から信用されていなかった日本の料理だが、64年大会はオールジャパンで成功を勝ち取った。

日本の食材が「らしさ」に

 あれから56年。今度は日本の料理が世界のトップクラスとなって大会を迎える。期待に応えるには「いかに日本らしさを出すか」と田中氏は言う。

 「わさび、しょうゆ、みそだけが日本らしさではない」と話し、「暖流と寒流がぶつかり、魚の種類がここまで多い国は他にない。フルーツも日本が1番。山も川もあり『日本らしさ』とはまさに、日本の食材をさまざまなジャンルの料理に生かしていくことではないか」と語った。被災地の食材も「むしろ安全。どんどんアピールすべきだ」と強調した。

 和食を紹介するコーナーを設け「大きくアピールするのは良いこと」と話す。しかし、競技前の選手はあくまで試合に勝つために食事をするため、自分の口に慣れ親しんだ料理を選ぶ。メニューは海外料理でも、日本産の食材で味が数段上がれば「日本食の評価につながるはず」と語った。

 その知見は食材を選ぶ「目利き」と、それを生かす「腕」と「舌」を併せ持つ一流料理人にある。五輪食堂成功の出番に向け、既に肩は仕上がっている。

田中健一郎(たなか・けんいちろう)

1950年(昭25)9月13日、東京都生まれ。錦城高校卒業後、69年、帝国ホテル入社。97年に調理部長、02年に総料理長に就任。12年に専務執行役員総料理長となり現在に至る。15年、厚生労働省認定「現代の名工」を受賞。昨年12月には同ホテル初となる文化庁長官表彰を受賞した。

◆星の数世界一
 世界の飲食店を3段階の星で評価する「ミシュランガイド」で、東京の星獲得店舗数は世界一だ。15年の星獲得店舗は東京が226店、パリが94店、米ニューヨークが76店だった。大阪、京都、神戸などのガイドもあるが、これも各国の都市を上回り、日本の総合力の高さが分かる。

 18年版の発売に際し、同ガイドの総責任者マイケル・エリス氏は「すし、フレンチ、イタリアン、スパニッシュ、天ぷら、居酒屋など東京の食の魅力は計り知れない。このバラエティー豊かな食が、星の数で世界一を誇る東京の象徴だ」とコメントした。

◆レガシーとして残る冷凍食品
 帝国ホテル新館料理長だった村上信夫氏は、64年東京五輪の選手村に設置された「富士食堂」の料理長を務めた。同食堂は日本、アジア、中東の選手団向けだった。欧米選手団向けの「桜食堂」は第一ホテル料理長・福原潔氏、「女子食堂」はホテルニューグランド料理長・入江茂忠氏、食材供給を一手に担う「サプライセンター」は日活ホテル料理長・馬場久氏がそれぞれトップに立ち運営した。

 中でも「富士食堂」は大変だった。当時、日本の料理界に中東料理の知識はほとんどなかった。村上氏は中東の大使館を回り、大使夫人らに聞き込み、商社にも取材。食材調達ルートや味を勉強した。

 64年大会の飲食を通じて、現在もレガシーとして残っているのが冷凍食品だ。当時、冷食は品質で劣るとされており、帝国ホテルにもGHQが置いていったマイナス10度までしか下がらない冷凍庫しかなかった。

 しかし、選手、コーチら約8000人に対し、大会中「20万人分、60万食」を大量提供するには生鮮だけでは無理があった。そのため、ニチレイと協力し、超大型冷凍庫を導入。これが業務用冷凍庫のはしりとなった。大会後、同ホテルはマイナス50度まで冷やせる大型冷凍庫を購入した。

 63年8月、同ホテル孔雀(くじゃく)の間で試食会を行った。当時五輪相の佐藤栄作元首相も参加。そこに冷凍食材を利用した料理も出したが、生鮮食材と「区別が付かない」と評価され、大会での実用化にこぎつけた。

 村上氏の回顧録によると、日本選手が金メダルを取ったら赤飯を炊くと約束していた。しかし大会3日目、重量挙げフェザー級で三宅義信が金1号となったが、もち米や小豆などの材料が届いておらず、作れなかった。コーチから「約束が違う」と怒られたという。

 マラソン男子で連覇を果たしたアベベは、その日の夕方に食堂へ来て、コーラを飲んだという。

 食堂には、給仕などをするサービス要員540人も確保。日本ホテル協会加盟ホテルのスタッフに加え、大学などの観光事業研究会のメンバーから選出され、学生委員会の幹事校は早大、慶大、明大、立大だった。1日の栄養は1人6000キロカロリーを目安にした。93カ国の選手の胃袋をこうした努力で満たしていった。

(2018年1月24日付日刊スポーツ紙面掲載)