かつて「東洋の魔女」と称され、日本中を熱狂させたバレーボール女子チーム。日紡貝塚のエーススパイカーとして活躍した谷田(現姓井戸川)絹子さん(80)は、1964年の東京オリンピックでも金メダルを獲得し、一世を風靡(ふうび)しました。今も元気にバレーボールに関わり、2度目のオリンピック東京開催を楽しみにする元アスリートに、当時の食生活、パワー源について話を聞きました。【聞き手・中西美雁】
-168cmのレフト。子どもの頃に食べていたものは
谷田 お米の普通のご飯ですよ。うちは商売(牛乳販売店)をやっていたので、大鍋でおみそ汁を作っていたのですが、私は食べませんでした。ご飯とお漬物。栄養バランスなんて全然考えませんでしたね(苦笑)。納豆は食べられず、大人になってから食べられるようになりましたね。ニンジンは嫌いで、今でも食べられません。
-タンパク源は
谷田 タンパク質は何からとっていたかな? 毎日おいしい牛乳はたくさん飲んでいました。学校の給食で出た脱脂粉乳は、とてものどを通りませんでした。どうしても、と言われたら鼻をつまんで我慢して飲み込んでいたかな。
-食べ物に関する思い出は
谷田 出身は大阪で、 日紡貝塚も大阪が拠点。東京や地方に試合に行くとなると、姉と母がお重にお弁当を入れて持たせてくれ、大阪駅まで送ってくれました。それはいいんですけど、帰りですよ。今と違って使い捨ての入れ物じゃありませんから、空のお重を持って帰らないといけないことが印象に残っていますね。
-海外遠征で食べ物に困ったことは
谷田 海外遠征では、私と大松先生(故大松博文氏)だけ何でも食べられたんです。他のみんなはお魚ダメ、お肉ダメと、なかなか食べられない。キャプテンの河西昌枝さんもお肉が食べられず、お魚だけ。だからお肉が出ると「はいタニ、これ」「はいタニ、これも」とじゃんじゃん私のお皿に入れてくれました。
-印象深かった国は
谷田 初の海外遠征がインドネシアだったんですが、私たちがお肉を食べていると現地の人がニヤニヤして「これ、何の肉だと思う?」と聞いてきたんです。カエルだったんですね。私は別に平気だったんですけど、嫌がっている人の方が多くてね。でもそういう人たちにも食べさせないと、体がもたない。アイスクリームはおいしかったので、みんな食べていましたね。お米も、日本と違う細長いお米だったので、気にする人もいました。
-大松監督も何でも食べた
谷田 はい、大松先生も好き嫌いはなかったですね。「鬼の大松」と呼ばれますけど、確かに練習では厳しかったですが、ポケットマネーでみんなを映画に連れて行ってくれるなど、優しいところもたくさんありました。私たちにとっては「仏の大松」でしたよ。
-今、好きな食べ物は
谷田 それはもう、ステーキですよ(笑)。お肉を食べると元気が出ます。80歳の今も食べます。それが元気の秘密です。
-ジュニアアスリートとそのお母さんたちへメッセージを
谷田 何でも食べるのが一番です。好き嫌いを言うたらあかん。どこに行っても、何でも食べられるのが一番。そのためには、なるべく好き嫌いをなくすこと。好きなものばっかり食べるんではなくて、バランスよくね。
◆谷田絹子(たにだ・きぬこ) 現姓井戸川。1939年9月19日、大阪府出身。四天王寺-日紡貝塚。故大松博文監督の下で猛練習して力を伸ばす。1961年の欧州遠征で22連勝したことで「東洋の魔女」と言われたメンバーの1人。62年の世界選手権で初優勝し、回転レシーブや木の葉落としサーブが世界を驚かせた。日紡貝塚を主体として構成された日本代表として64年東京オリンピックに出場し、優勝。ソ連との優勝決定戦のテレビ視聴率66.8%はいまだスポーツ中継歴代最高。168cm。