<忘れられない味(4)>

あれは、ダイエー球団創設11年目の初優勝が見えてきた1999年(平11)のこと。季節は夏から秋へ移るころだったと思う。俺は先輩記者と連れだって、福岡市西郊の繁華街、西新(にしじん)の裏路地にある小体な居酒屋へ出かけた。

店内に入ると、10人ほどのお客がいて、奥のテーブルに広がる談笑の輪の中心に王貞治・ダイエー監督の顔があった。王さんは、俺たちをみとめると「こっちへ来ないか」と手招きした。

ダイエー王監督(2004年11月撮影)
ダイエー王監督(2004年11月撮影)

この日、九州の有名人行きつけの店を紹介する企画で、試合前に王さんを取材したところ「今夜行くから、一緒にどうだ」と招かれたのだ。当時、社会面を担当していて、プロ野球に触れる機会は少なかったから、少年時代に憧れた「世界の王」と酒席をともにできるなんて、マジで夢みたいだった。

王さんは、顔なじみに囲まれて、なごやかに語り、笑っていた。夢見心地の俺たちも、飲んで食べて、のんきに楽しんでいた。だがやがて、この席には暗黙の了解があることに気づいた。お客の誰も野球の話をしないのだ。63年の西鉄以来、久しぶりの優勝がかかる地元チームに、シーズン終盤の福岡の街は沸き立っていた。その監督を囲む席で野球の話題が出ないのは、いかにも不自然だった。

俺たちの心をはかったように、見知らぬ紳士が耳打ちする。「勝った日も負けた日も、王さんが居心地いいように」と店主が配慮しているのだ、と。ほら、店にいちげんの客はいないだろ。「なるほど」と得心のいった俺がカウンターを振り返ると、店主は黙々とつまみを作っていた。

95年の就任当初は歓迎した市民も、負けてばかりの王さんにいつまでも優しくはなかった。眉間のしわがどうしたとか、采配がワンパターンだとか、批判する声も大きくなっていった。街を歩く王さんは、いつも身構えているようだった、とスポーツ紙のOB記者が言ってた。俺も、球場で聞くに堪えない雑言を何度も聞いた。勝負の世界の厳しさは、世界の王にさえ、こんな忍従を強いるのかと悲しくなった。

と、店内に流れるテレビで、この日もダイエーが快勝したことを伝えた。野球への無関心を装っていたお客たちも、たまらず手をたたく。遠慮がちで小さな拍手だったけど、とても温かい音だった。俺の目の前にいる王さんは、まるで人ごとのように飲んでしゃべって笑ってた。

午後11時を回ったころ、王さんは「じゃあ、これで」と帰っていった。王さんと過ごしたこの場に、もう少し浸っていたくて、居残りを決めた俺と先輩は、王さんについて同じ話を何度も繰り返しては、バカみたいに笑って、焼酎をあおった。今から21年前、西新の夜は、そんなふうに更けていった。(肩書は当時、つづく) 【秋山惣一郎】

(2020年10月4日、ニッカンスポーツ・コム掲載)