野球とは人生そのものだ-。ミスターこと巨人長嶋茂雄終身名誉監督の名言です。不要不急の外出自粛が続くゴールデンウイーク。こどもの日の#おうち時間を楽しんでもらおうと、5月5日付の日刊スポーツ紙面(東京本社版)では「実録 ゲーム野球人生」を大展開!
このゲームは、プロ野球選手の少年時代からのエピソードをたどりながら、2021年東京五輪での金メダルを目指すボードゲーム。各マスは選手たちが実際に直面した出来事で、本ページで72のエピソードの詳細を掲載しています。
プロ野球選手が歩んできた道のりを、お楽しみ下さい!
【各マス目のエピソード】
<1>巨人のエース菅野は幼少期から壁当てで、制球力を磨いた。壁にチョークでストライクゾーンを書き、ひたすら投げ込んだ。中学時にはバッティングセンターのストラックアウトでパーフェクトを連発した。
<2>オリックス吉田正は日本のプロ野球にも興味があったが、テレビのMLB中継にかじりついた。プロ入り後の入寮時には目標とするブライス・ハーパーの絵を持参。背番号は同じ34をつけると決めていた。
<3>巨人坂本は左利きで、文字を書くのも食事をするのも左手を使用する。当初は球を投げるのも左だったが、右利きだった兄のグラブを与えられ、自然と右投げに変わった。
<4>楽天黒川は幼稚園の時に父親に玩具店で買ってもらったプラスチックバットを小学生になっても肌身から離さなかった。どんなおもちゃよりもお気に入りで、バットを大事に抱えながら寝ていた。
<5>巨人山下は小学6年時、同期が3人の弱小チーム所属だった。本人の記憶では「ほぼコールド負け。年間7勝くらい」。悔しさを胸に、中学ではジャイアンツカップを制覇した。
<6>DeNA三嶋の父は元甲子園球児だが野球を強制されなかった。ボランチなどで6年間サッカーをプレー。中学から野球部に入るが、そのまま続けていたら「いい線いったんじゃないかな。自信あります」。
<7>元中日の大豊泰昭氏は、台湾での少年時代に川に薬を流して浮いてきた魚をパクリ。王貞治に憧れ来日、一本足打法で94年に待望の本塁打王に。
<8>日本ハム上沢は小学3年から6年までサッカー少年も能力に限界を感じて断念。兄が中学から野球を始めたため中学進学を機に軟式野球部へ。防具を装着する姿が格好いいという理由で捕手志望だった。
<9>ロッテ小島は小学生時代、両親の勧めもあって野球と水泳を両立した。水泳でも運動能力を発揮し、選手コースで週5回泳いだ時期も。「可動域もだし、心肺機能もすごく強くなりました」。
<10>西武源田は地元・大分で盛んだったソフトボールチームに入団。弾まない打球の処理と、重くて大きい球を投げることで、守備の基礎を培った。今では守備でファンをうならせる職人になった。
<11>ヤンキース田中は小学生の時に所属した「昆陽里タイガース」で巨人坂本とバッテリーを組んだ。当時は坂本が投手で、田中が捕手。ともに負けず嫌いで高め合った。
<12>ロッテ佐々木朗は現在、身長が190センチ。幼少期、岩手県内で「早寝する子は育つ」とのうわさが広まり、母が実践した。毎晩8時に消灯。見事に最速163キロの礎を築いた。今でも早寝を続ける。
<13>広島田中広は田中家の長男として誕生。3人の弟妹ができたことで責任感が強く、家事を手伝うように。中学に入ると弁当も作るようになった。得意料理はオムライス。巨人俊太は実弟。
<14>DeNA三上は軟式野球が盛んな岐阜出身。小学1年から捕手として野球を始めた。体格にも恵まれ、県岐阜商2年夏に三塁手で甲子園出場。投手を本格的に始めたのは同秋から。
<15>広島大瀬良は小学生から痛みを感じていた右肘を中学3年時に手術。「右が使えないなら、左で」と全体練習後に居残りで左投げを練習。鉛筆や箸も左手で使えるようになり、遠投も80メートルを超えた。
<16>阪神近本は兵庫・淡路島育ち。祖父と父、2人の兄が島内の津名高出身ということもあり、当初、父が島外への進学を反対。すると近本は「社(やしろ)で野球がしたい!」と書いた紙を冷蔵庫に張って家出。数日後その思いに父が折れ、社進学が認められた。
<17>西武森は中学時代、やんちゃな一面はあったものの、野球は真剣に取り組み続けた。同い年のドラ1宮川とは投手として対戦。未来の西武でバッテリーを組むことになる。
<18>ロッテ藤原は中学時代、大阪の強豪枚方ボーイズに入団。順調にスタートも半年後に入団した同学年の左打者が正遊撃手となり遊撃の選手は右翼へ。藤原がはじき出された。その左打者が広島小園だった。
<19>ソフトバンク高橋礼は中学2年でアンダースロー転向。当時のコーチが守備練習で送球する姿を見てひらめき提案。元ロッテ渡辺俊介氏や楽天牧田を参考に侍ジャパン入りまで成長した。
<20>中日藤嶋は中学時代に「NOMOジャパン」に選出され米国遠征。その際に対面した上原浩治氏とプロ入り後の18年に再会し、球場で弟子入りを志願した。昨季のリリーフ転向の際も金言を授かった。
<21>阪神及川は「スーパー中学生」として15歳だった17年にテレビ番組の企画でプロと対戦。中日平田から空振り三振を奪い、西武森には変化球を捉えられ中前打。当時の直球は130キロ台後半だった。
<22>日本ハム清宮は早実中1年だった12年に東京北砂リトルの一員として米国でのリトルリーグ世界選手権に出場。投打で活躍してチームの世界一に貢献し、米メディアから「和製ベーブ・ルース」と称された。
<23>巨人大竹は強豪浦和学院への進学を決めた。当初は地元公立高校に進学希望だったが、浦和学院・森監督の熱い思いに心を動かされた。2年夏に甲子園に出場し、3年時には高校日本代表に選出された。
<24>広島菊池涼は東京出身も、高校は長野・塩尻市の武蔵工大二(現東京都市大塩尻)に入学。「空気がきれいだったからか」と本人も不思議に感じるほど、在学中に患っていたぜんそくが治まった。
<25>福岡出身の巨人野上は鹿児島・神村学園に進学。3年時に出場したセンバツでは好投を続けて勝ち上がり準V。決勝の相手だった愛工大名電には後に西武でチームメートになる十亀がベンチ入りした。
<26>ヤクルト雄平は地元神奈川を離れ、強豪の東北へ進学。3年夏の宮城県大会で最速151キロをマーク。高校生左腕150キロの元祖となる。02年ドラフト1巡目でヤクルト入団。10年から外野手転向し主軸に。
<27>滋賀出身のソフトバンク松田宣は岐阜・中京高2年で遊撃手として双子の兄と夏の甲子園出場。初戦の那覇戦で延長11回に悪送球し決勝点を許した。今ではゴールデングラブ賞常連の名手に。
<28>千葉出身の楽天津留崎は慶応高3年時、夏の神奈川大会前に右肘を損傷し投手は困難と医師に通達されたが、準々決勝で痛み止めとテーピングを施し強行出場。ヘッドスライディング時に左前腕と手首を骨折し、大会後に両腕を手術した。右肘はトミー・ジョン手術を行った。リハビリ中に筋力トレに目覚め、最速153キロ右腕として楽天にドラフト3位で入団した。
<29>大阪桐蔭3年時に投手、遊撃手で甲子園春夏連覇に貢献した中日根尾は岐阜出身。新人だった昨季は1軍2試合で2三振。昨オフはバット工場に出向き新バット発注。飛躍を期す。
<30>東京出身の西武松坂は横浜高3年夏の甲子園決勝でノーヒットノーランを達成し春夏連覇を決めた。入団した西武では、埼玉・所沢での新人合同自主トレで、花粉症が悪化すると近所の杉の木が伐採された。
<31>楽天岸は宮城県内の仙台西と名取北で進学先を迷ったが「自宅から近い」「体験入部で丸刈りが強制ではないと知った」ことを理由に名取北へ。2年時からエース。3年夏の大会は2回戦敗退も東北学院大へ進み、06年ドラフト希望入団枠で西武へ入団した。
<32>DeNA藤井打撃投手兼広報は95年の今治西3年時に主将としてセンバツ出場。準々決勝、神港学園戦の9回、投球中に左肘を痛め降板した。延長サヨナラ勝ちも、93年夏に医師による投手の肩ヒジ検査が始まって以降、初の投球禁止令が出された。「投げます」と志願も当然却下。準決勝は「4番一塁」で出場し敗退。プロ入り後に再び痛め、手術を受けた。
<33>阪神井上は大阪・履正社随一の大食漢だった。焼き肉食べ放題の店に行くと、いきなり「メニュー全部」を注文し、止まらぬオーダーに店員が追いつかないほど。中学時代は毎日お昼の弁当で米3合をたいらげた。
<34>楽天牧田は静岡・静清工1年の秋、同学年に140キロ超えの右上手投げの投手がいたため、藪崎部長の助言を受けアンダースローに転向。転向直後の練習試合では直球だけで10三振を奪った。
<35>巨人小石打撃投手は大分・鶴崎工2年時に、国語の授業の一環で「第16回伊藤園お~いお茶新俳句大賞」に応募し各都道府県で5人が選出される「都道府県賞」を受賞。プロ初勝利のお立ち台で一句詠んだ。
<36>広島森下は大分商入学時に120キロ台後半だった球速が3年春に最速148キロに。身長は6センチ伸び、体重も10キロ増。冬の水球部と合同トレや直径50センチ、約20キロの丸太を抱えて走る名物トレーニングで鍛え上げた。
<37>オリックス山岡は広島・瀬戸内3年夏の県大会で広島新庄の田口(巨人)と決勝で延長15回を投げ合って引き分け。再試合に勝って、念願の甲子園への切符を獲得した。
<38>兄と同じ宮崎県立の日向高に進んだヤクルト青木は1年の終わりに早大への指定校推薦枠が1つあると知り、エースとしてチームをけん引しつつ試験前の2週間は平均睡眠2時間の猛勉強。見事に合格した。
<39>オリックス太田は球団スタッフで打撃投手を務める父の暁氏と同じチームに念願の入団を果たす。オフには二人三脚で「親子トレ」を敢行。親子愛で飛躍を狙う。
<40>広島会沢は1年目の5月、2軍サーパス(現オリックス)戦の9回2死から代打でプロ初出場。完全試合まであと1人とした近藤(現ヤクルト)から追い込まれた直後に頭部死球。大記録を阻止するも、そのまま救急車で搬送された。
<41>高卒で同期入団の西武栗山と中村は関西から同じ新幹線で上京。左側の座席に座っていた中村が、カメラ付き携帯で富士山を撮影する姿に栗山は「なんや、こいつ」と爆笑する。
<42>西武中村は座右の銘を「おかわり」と言い、おかわり君と呼ばれるようになった。ちなみに1試合2発の初おかわり弾は、プロ4年目の05年5月5日、日本ハム戦。ハム料理をおいしくたいらげた。
<43>日本ハム大田はプロ8年目のオフに交換トレードで巨人から移籍。巨人時代は8年間で9本塁打だったが、移籍後は3年間で49本塁打を放ちレギュラーに定着。19年オフに推定年俸1億円で契約更改した。
<44>ロッテ・ハーマンは、名門米ハーバード大で経済学の学位を取得した秀才右腕。異国生活でもさまざまなことにトライを続けている。
<45>オリックス山本は偶然テレビで見たランディ・ジョンソンのツーシームの握りを参考にシュートを習得。先発転向するにあたり、投球の幅を広げることが狙いだった。
<46>ソフトバンク周東は球団が得意とする“一芸指名”でプロ入り。育成2年目の19年春に支配下登録されると、主に代走ながらチームトップ25盗塁。プレミア12でも侍ジャパンの切り札に。
<47>15年、ヤクルト山田哲とソフトバンク柳田がトリプルスリーを達成。流行語大賞受賞に柳田は「信じられない」。ちなみに同年同時受賞した流行語大賞は「爆買い」だった。プロ野球では99年「雑草魂」「リベンジ」以来16年ぶりの流行語大賞受賞。
<48>日本ハム斎藤は早実時代の06年夏の甲子園で全国制覇。マウンド上で青いハンカチを使い汗を拭うしぐさから「ハンカチ王子」と呼ばれた。進学した早大でも空前絶後の佑ちゃんフィーバーが巻き起こった。
<49>ロッテの守護神、益田は市和歌山商時代は控えの遊撃手だった。関西国際大入学後に投手に転向し、ドラフト指名を受けるまでに成長していった。
<50>ソフトバンク柳田は広島経大時代、野球の練習後に毎日のようにボウリング場に通った。プロ1年目には「トリプルスリーのどの『3』よりボウリングの300の方が達成しやすい」と豪語? した。
<51>DeNA今永は駒大1年春からリーグ戦に登板。3年秋には7勝を挙げ、MVP、最優秀投手、ベストナインの3冠。「大学NO・1左腕」と注目された4年春はケガに苦しんだが、同秋に復活を果たした。
<52>ヤクルト高津監督の強さは亜大時代に培われた。当初は同学年の4番手。2年まで打撃投手で600球を投げた後にブルペンで300球など毎日約1000球。「人には負けない球数を投げていた」。
<53>楽天則本昂は三重中京大に進学。入学直後に4年後の閉校を通達され、当時の1年生42人は大学近くのスーパーの駐車場に集まり、車座になって約40分間話し合った。結果、半数近くが退部。24人で4年間を戦った。則本昂は4年春の全日本大学選手権1回戦で大体大から10回20奪三振の大会新記録を樹立。12年ドラフト2位で楽天に入団した。
<54>巨人阿部2軍監督は、中大4年時の00年にプロ野球選手の出場が解禁されたシドニー五輪代表に選ばれた。巨人時代にもオールプロで構成された08年北京五輪に出場した。
<55>元中日監督の落合博満氏は東洋大中退後にプロボウラーにも挑戦。ロッテ入団後は史上最多の3度の3冠王を獲得。中日、巨人、日本ハムで活躍した。04年から11年まで中日監督を務め、8年で4度のリーグ優勝と日本一1回。
<56>DeNA神里は中大で主将を務めベストナインにも選ばれたがドラフト指名なし。日本生命では1年目から都市対抗、日本選手権出場。2年目に社会人日本代表に選出され、17年2位指名でプロの世界へ。
<57>元巨人の森福は愛知・豊川高からシダックス入社。1年目は野村克也監督のもとで投手陣をけん引。2年目はJR東日本の補強選手で都市対抗4強入りに貢献。シダックス廃部によって高卒2年目ながら特例でソフトバンクから指名。
<58>広島西川は社会人の王子時代、知人に頼んで日本ハム中田のバットを手に入れた。プロ入り後も型を変えずに使い続ける。こだわりは強く「気持ち悪い感覚になるから」と他の選手のバットを両手で握らない。
<59>楽天牧田は日本通運時代の08年日本選手権での試合中、投手前へのバント処理で転倒し、右足前十字靱帯(じんたい)を断裂。プロを諦めかけたが、トレーナーに「人間はプラス思考になれば、プラスに動く。マイナス思考になれば、マイナスに動く」と励まされてリハビリに耐えた。10年ドラフト2位で西武に入団した。
<60>DeNA宮崎はセガサミー1年目から公式戦に出場し都市対抗出場に導く。2年目の都市対抗では初戦の8回、長嶋茂雄巨人終身名誉監督も観戦する中で逆転満塁弾。同年秋の日本代表候補にも選出された。
<61>巨人野間口スカウトは野村克也監督率いるシダックスのエースで03年の都市対抗で準優勝。翌04年ドラフトで巨人に自由獲得枠で入団。150キロを超える直球を武器に、巨人で11年間プレーした。
<62>阪神近本は大阪ガス2年目の都市対抗で優勝を果たし、自身も打率5割2分4厘で首位打者に。最優秀選手に贈られる橋戸賞も受賞し、スカウトの評価は急上昇しドラフト1位候補に躍り出た。
<63>広島から巨人にFA移籍した丸は阿部発案の「丸ポーズ」でチームに一体感を与えた。シーズン途中からは原監督も本塁打を放った丸を同ポーズでお出迎え。2年目の今季は片手バージョンも考案した。
<64>ソフトバンク内川は10年オフに横浜からFA移籍。11年、打率3割3分8厘で史上2人目のセ、パ両リーグ首位打者を獲得した。日本シリーズ制覇後は男泣きした。
<65>阪神の金本前監督は02年オフに当時の星野監督のラブコールを受け、広島から阪神にFA移籍。05年には40本塁打でリーグ優勝に貢献。通算476本塁打の頼れる打撃とおとこ気で「アニキ」と呼ばれた。
<66>巨人杉内2軍投手コーチは、巨人移籍1年目の12年5月30日楽天戦でノーヒットノーランを達成。9回2死まで完全試合だったが、代打中島への四球で記録が途絶えた。交流戦では日本人選手初のノーヒットノーランだった。
<67>前中日監督の谷繁元信氏は史上最多の3021試合出場を記録する平成の名捕手。大洋(横浜)、中日で活躍し、14年から選手兼任監督を含め3年間中日の指揮を執った。
<68>ロッテ福浦2軍ヘッド兼打撃コーチは93年ドラフト7位でプロ入り。「大型左腕」として評価も、入団後すぐに肩痛に悩まされ、7月に野手転向を決心。23年間で2000本を積み重ね、19年に現役引退した。
<69>西武中村は右ふくらはぎ痛から復帰直後の20年3月3日のオープン戦中日戦で打席数確保のため人生初の1番に。初球を左翼席に運ぶ先頭打者アーチを描いた。その姿が「#休校になった君たちへ」と塗り絵になって1面を飾った。
<70>ロッテ荻野は走攻守に高い身体能力を発揮するも、常に故障がつきまとっていた。19年に10年目で初めて規定打席に到達。リーグ3位の打率3割1分5厘をマークした。
<71>中日大島は19年に最多安打のタイトルを獲得。174安打を放ち、巨人坂本を1本差で上回った。自身初の打撃タイトルに「10年かかってやっと取れたな、という気持ち」。この年はプロ10年目で3度目の全試合出場も果たした。
<72>巨人阿部2軍監督は現役最後のソフトバンクとの19年日本シリーズ初戦、第1打席で千賀から先制のソロ本塁打を放った。チームは4連敗で日本一を逃したが存在感は際立った。
(2020年5月5日、ニッカンスポーツ・コム掲載)