<高橋大輔の再出発(2)>
フィギュアスケート高橋大輔(33)の新しい挑戦が始まりました。オリンピック(五輪)3大会に出場した元世界王者は19年12月、全日本選手権でシングルとしての最後の演技を終え、20年からアイスダンスへ転向します。
節約したお金をリンク代に
日曜夕方のJR大阪駅は、いつも人でごった返していた。中2の夏にコーチの長光歌子と出会った高橋は、週末を大阪・高槻市のリンクで過ごした。練習を終えると、疲れ切った少年が乗り込むのは特急券のいらない新快速。自宅のある岡山・倉敷市まで3時間、新幹線を使わずに帰った。車中でたまった宿題を終わらせ、浮いた片道3000円分をリンク代に充てた。ある日、大阪駅で見送った長光は、ホームにできた長い列を見ると声をかけた。
「15分後にも新快速があるから、一番前で次の電車を待ちなさい。そうしたら座って帰れるでしょう」
次の新快速が着いた。年配の女性に先を越され、結局は車内で立っていた。そんな純情な中学生だった。
世界レベルのエキシビションに刺激
高橋家4兄弟の末っ子として、のびのびと育てられた。両親は共働きで、母の清登(きよと)は倉敷市内の「理容タムラ」で朝から晩まで働いた。自宅は理容店から「お~い」と叫ぶと届く距離にあったが、幼少期は夜になると怖くて外に出られなかった。いつも働く母の隣でおやつを食べ、宿題を済ませた。自宅同然の理容店を仕切るオーナーの長女、初瀬英子を「姉ちゃん」と慕った。
スケートに出会ったのは94年2月、8歳となる1カ月前だった。初瀬に誘われて、市内にできたばかりのリンクへ遊びにいった。生まれたての子鹿のように滑ると「これをしたい!」と目を輝かせ、フィギュアスケートを始めた。一方で食べ盛りの4兄弟を養う高橋家の家計は苦しくなった。
所属するクラブの行事が企画されたのは競技の魅力を感じ始めた、そんな頃だった。広島で開催されたエキシビション。行きは在来線、帰りは新幹線。世界の名選手の演技を2階席から見るのに、1万円かかった。笑顔で送り出した清登だったが、内心は複雑だった。様子を悟られないように振る舞った。
「さすがに1万円はきついな…」
普段はラーメンをもやしでかさ増しし、外食時も家で食事をしてから店に向かう。そんな節約生活を送っていたが、母は息子に1000円を握らせた。華やかなエキシビションに高橋の胸は高鳴り、引率していた初瀬の袖を握りしめた。
「姉ちゃん、ボナリーに花を投げたい!」
フランスの女子選手を指さすと、目を輝かせた。
「花、500円するよ? 本当にいいの? 後悔しない!?」
「うん!」
自宅に戻ると、清登の元へ駆け寄った。
「母ちゃん、良かった~!」
その笑顔は日常生活の苦労を吹き飛ばした。理容店の常連客は「大輔に使ってやって」と100円、200円とおつりを置いていき、母はそれをペットボトルに貯金した。スロベニアで行われた初めての国際大会では100万円近くの遠征費がかかり、清登は退職金の積み立てを崩した。海外遠征時はいつも初瀬と夜行バスで東京に向かい、そこから海外へと飛び立った。
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