トップアスリートは、いかにして生まれたのか? 東京オリンピック(五輪)世代のU-23日本代表FW上田綺世(22=鹿島アントラーズ)は、周囲からプロは無理だと言われた悔しさや父に認められたいという“反骨心”を胸に、プロの世界へ駆け上がってきた。時系列にあわせて心の変化を追うと、たくましい精神の形成過程が見えてきた。Jリーガーを夢見るサッカー少年へ、上田の半生をお届けする。
茨城・水戸に生まれた上田は、小学1年生でサッカーを始めた。所属していた少年団の練習は日曜日のみ。平日は学校が終わると、近所の公園で日が暮れるまでボールを蹴った。ただただ、サッカーが楽しかった。土曜日は父とシュート練習に励んだ。どんなクロスにも泥臭く反応して、無人のゴールに何本も蹴り込んだ。
小学5年生からは、サッカースクールにも入った。市選抜より上に行けなかったことで向上心に火が付き、プロになりたいと思い始めたのがきっかけだった。スクールで学んだのは個人戦術。
「1対1や2対2、狭い局面でのボールさばき、駆け引きなど。週4回くらいは通いました。常にボールを蹴っていたかったのもあるけど、(週末の試合という)“本職の舞台”で活躍するために必要な戦術を学びました」
小学6年生では関東選抜まで上り詰めた。自分よりうまい選手が多い環境に、ひたすらワクワクした。
ライバルより上に行きたい-上田の向上心は止まらなかった。中学校進学を前にセレクションを受け、鹿島の下部組織に加入した。スクールにも引き続き通った。
「サッカーをしない日はなかった。もちろん遊びたいとか、サッカーが嫌になった時期はあったと思う。サッカー漬けにすればいいわけじゃないけど、ハードなスケジュールでサッカーをやり続けたから、今があると思う。中学生のころは体の成長に悩んでいて、上達したかったんです」
中学入学時の身長は150センチ弱だった。中学3年時に訪れた成長期にはケガや病気が重なり、約1カ月、サッカーができなかった。復帰後は体のバランスに慣れず、うまくいかない日々が続いた。卒業時にも身長は170センチと、現在182センチの上田からすれば、まだ小さかった。
「父が大きかったのもあって、背は伸びると信じてヘディング練習に取り組んできました。仮に大きくなったとき、デカいだけの選手にはなりたくなかった。デカくなっても、何でもできるような選手を目指していました」
中学時代を過ごした鹿島の下部組織では、周囲との温度差に驚いた。当然のように全員がプロを目指すものと思っていたが、意外にも実際に目指していたのは1人、2人のみ。
「その志の違いに違和感を覚えて、それに対する反骨心があった。『無理でしょ、本当に目指すの?』と言われるのが悔しくて、『じゃあ、なってやるから覚えておけよ』と見返したいのもあった。それと、叱ってくれる父に対する反骨心というのが、小さいころからありました」
父に送迎してもらい試合に向かっていた幼少期は、車で帰る時間が怖かった。
「思い通りのパフォーマンスができなかったときは、それに対する悔しさよりも、父に何と言われるかが怖かった。向上心や反骨心を持つ対象は、人それぞれあっていいと思う。全員がプロを目指す必要はないし、親にほめられたい、監督に認められたい、昨日の自分が悔しかった…どこに向かってもいい。やり続けることがいちばん大事」
上田が中学年代までに抱いた反骨心の源は「父」と「同世代」だった。反骨心-それは上田が自身のキャリアを振り返るとき、よく口にする言葉だ。プロを目指す子どもたちにも、同じ言葉を届けたいという。
「負けたときとか、悔しさを感じることはあると思う。それを内に秘めて『いずれ自分の力に変えてやる』という反骨心を持ってほしい。人に当たって爆発させるのでなく、反骨心を自分の力に変えてほしい」
反骨心ではい上がってきた上田だから、言える言葉。一流のアスリートが語る“心の持ちよう”は、本人の言葉からしか学べない貴重な教材だ。【杉山理紗】
◆上田綺世(うえだ・あやせ)1998年(平10)8月28日、水戸市生まれ。小学年代は吉田ケ丘SSS、中学年代は鹿島アントラーズノルテでプレー。鹿島学園を経て法大に進学、2年時の18年に全日本大学サッカー選手権優勝に貢献した。19年7月には同大サッカー部を退部、予定を前倒しして鹿島入りし、公式戦17試合4得点。世代別代表には17年のU-20代表で初招集されて以来、東京五輪世代に名を連ねている。19年5月に南米選手権のメンバーとしてA代表に初招集された。国際Aマッチ6試合0得点。182センチ、76キロ。
(2020年4月11日、ニッカンスポーツ・コム掲載)