各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。今回は昨季の楽天ドラフト1位ルーキーで新人王候補にもなった小深田大翔内野手(25)の登場です。168センチと小柄ながら50メートル5秒9の俊足、堅守、巧打を武器に1年目から活躍。高い身体能力は地元兵庫・佐用町の大自然に培われた“遊び”に原点がありました。体格に恵まれなくても、強い気持ちを持ち続ければ、夢はかなう。
背の順で縦に並ぶと20人中、前から3番目。「男子だと1か2、女の子を入れるとそれくらいですね」。利神小6年時の小深田は、身長145センチ前後だった。「『これから伸びるやろ』と思ってました。伸びてはいたんですが、ちょっとずつしか伸びないなと…」。無邪気な笑顔がまぶしい小柄な少年は13年後、楽天のユニホームに袖を通し、グラウンドを駆け回る。
1995年9月28日。兵庫西部に位置し、岡山県に隣接する佐用町に生まれた。町内の8割を山林が占める。名所は約120万本のひまわりが開花する、南光ひまわり畑。自然あふれる土地で、のびのびと育った。「ゲームも多少はやりましたが、家で遊ぶ方ではなかったです」。夏は佐用川で泳ぎ遊び、釣りも楽しんだ。冬はスキーに熱中。雪山をさっそうと滑り降りた。
保育園年中から中学1年までは水泳教室にも通った。得意種目は平泳ぎ。「けっこう得意でした。土日に野球があるので大会には出られませんでしたが、練習がきつかったので心拍数が高まったり、トレーニングにはなったと思います」。小学校の徒競走ではいつも1番。知らずのうちに、50メートル5秒9の俊足へとつながる身体能力が磨かれた。
白球への道は、父浩さんの影響で進んだ。小学1年の時、地元のサッカーチームの体験練習に参加したが、つぼにはまらなかった。「昔から父とキャッチボールはしていたので」と地域の子ども会が運営するソフトボールチーム「利神ドジャース」へ体験入団。「なんだか楽しいな、と思ったので」と入団を決めた。家のテレビのチャンネルは主に阪神戦の中継。自身と同じく小柄で、俊足を武器に盗塁王に輝いた赤星選手に憧れた。小学1、2年時は外野手、その後投手も務めた。「ホームランを打つタイプではなかったです」とつなぎ役を担った。
野球を通じて礼儀を学んだ。「あの時はめちゃくちゃ怒られました…」と苦笑いをしながら、小学6年時のある日を思い出す。チームの同学年の友達とともに頭を丸めて試合に臨んだ。開始直前、ホームを境に両チーム一列に並んであいさつをする際、帽子を取らずに頭を下げた。すると父から雷を落とされた。幼心に芽生えた恥ずかしさよりも、大切なものを教わった。「今でも忘れないです…」と強烈な印象が残っている。
佐用中時代は、父の勧めで硬式のヤングリーグ「佐用スターズ」に所属。神戸国際大付高で寮生活をはじめ、近大、大阪ガスと進んだ。「高校くらいからどうやったら試合に出られるかを考えた」と堅実な守備、バントなどの小技を磨いた。大阪ガスの先輩である阪神近本も参考に、打撃練習にも力を入れた。ドラフト1位でプロ入り後は「打たなきゃ試合に出られない」と、母校の高校と大学にそれぞれ100万円超えの打撃マシンを贈った。
168センチながら三木監督が「小力がある」と評価するように、プロの投手の速球も負けずに打ち返す。主に遊撃手として1年目から出場機会をつかんだ。
敵、味方問わず、歩んだ道のりには恵まれた体格を持つ選手がたくさんいた。でも決してめげなかった。「体は小さくても『大きい人に負けたくない』という気持ちをしっかり持ってほしいです。自分がいつ成長するか分からないので、諦めずに野球をやってください」。小学生時代に書いた将来の夢は「プロ野球選手」。目の前の白球に食らいつき、かなえた。
恩返しの思いも胸にプレーする。休み時間に缶蹴りやキックベース、ドッジボールなどで校庭を駆け回った利神小は昨年3月に閉校。ドラフト後の19年12月にOBとして閉校記念行事に参加。体育館の壇上で在校生へ打撃のアドバイスを行うなどした。「応援していただいた方々に、活躍する姿を見せられるように頑張りたいです」。同町初のプロ野球選手として、自らを成長させてくれた地元のためにも、歯を食いしばる。【桑原幹久】
◆小深田大翔(こぶかた・ひろと)1995年(平7)9月28日、兵庫県生まれ。神戸国際大付から近大に進学。関西学生リーグでベストナイン3度。大阪ガスでは18年都市対抗、19年日本選手権のチーム初優勝に貢献。19年ドラフト1位で楽天入団。年俸3300万円(金額は推定)。168センチ。69キロ。右投げ左打ち。
(2020年9月19日、ニッカンスポーツ・コム掲載)