プロゴルファー松山英樹(29=LEXUS)の米男子ツアー・マスターズ(米ジョージア州・オーガスタ・ナショナルGC)初制覇に、仙台市を中心とした宮城県が12日、歓喜で沸いた。東北福祉大時代を過ごし、卒業後も住民票を残した第2の故郷。生まれ育った愛媛県松山市同様に、愛着ある場所であり、支えてくれた恩人がたくさんいる場所でもある。
13年にプロ転向し、史上初のルーキーイヤー賞金王を獲得した時期に、トレーナーとしてともに戦った同大OB金田相範(はるのり)氏(38)は「号泣しました。宮城県や仙台市はコロナも大変な時期。震災から10年経つ今年、松山くんには被災地への思いもあったと思う」と自分のことのように喜んだ。現在は同市内で、焼き肉店「ハルバン」を家族で経営。まん延防止等重点措置中の街に、明るい光もともしたことに感謝。「自分にまで『おめでとう』とLINEやSNSにメッセージがたくさん届く。当時から「絶対に4大メジャーとるから」って言っていましたし、すごいことをしてくれたなと思います」。仙台に訪れた時は、今でも店を訪れてくれる後輩と再会できるコロナの収束も望んだ。
同行したマスターズで驚かされた記憶は、今でも鮮明だ。「普通は緊張して眠れなかったりしますが、会場入りの車の移動も、しっかり寝ていたのは、さすがだと思いました」。以降、継続的に一緒に取り組んだトレーニングや食事の成果も感じている。「当時から精神面や技術もすごかったですが、今は体格も外国人にも負けないくらいになっています。仙台市民だけでなく、日本全国に元気やパワーをくれました」と1つの夢実現も共有する思いだった。
東北福祉大時代の練習拠点だった泉国際ゴルフ倶楽部(仙台市)の吉田広支配人(63)は、細身だった体が、たくましくなっていく過程も見てきているだけに「感無量」と親心にあふれていた。「大学に入ったころは体つきも細かった。福祉大の子たちはジュニアの大会で優勝する時は多いのですが、英樹は優勝した時は『えっ、本当に』っていう感じでした」と懐かしむ。上級生になって、ようやく筋肉が付き、全国区となってきた。ドライバーの飛距離も300ヤード。来場者のために、練習場で松山が飛ばした場所に看板設置を打診したことがあるが「本人に相談したら『部は自分だけじゃないので』と断られちゃった。言葉数も少なく、オレがオレがというタイプではない。従業員に写真やサインをお願いされるのも、あまり好まない。仙台に来た時はゴルフコースを後輩たちを連れてまわったり。お金はさりげなく払う。後輩や仲間思いな、良い男です」。息子の成長を喜ぶような親心あふれる眼差しで「メジャーを勝ってしまったので、世界が放っておかない存在になってしまった。また大きな大会を勝ってもらいたい気持ちもあるのですが、どんな小さな大会でも1試合1試合頑張ってほしい」と願った。
11年3月11日、大学1年だった松山は、ゴルフ部のオーストラリア合宿中だった。映像で伝わった、東日本大震災の惨劇。だが、愛媛県の実家には戻らず、支援物資なども積んだバスで仙台に帰った。練習も食事も満足な状態ではなかったが、カップラーメンなどで生活し、翌4月にはマスターズに初挑戦。ローアマチュアを獲得した。以降、卒業後も仙台市に住民票を置き、納税でも被災地に還元してきた。優勝直後、松山は「10年前、ここ(マスターズ)に来た時に、ここに来させてもらって、自分が変わることが出来たと思っている。10年っていうのは、早いのか遅いのか分からないですけれど、こうやってその背中を押してくれた人たちに、また良い報告が出来たことは良かったなと思っています」とメッセージを送った。
宮城県の村井嘉浩知事(60)も「素晴らしい偉業」と県民栄誉賞を贈る意向。仙台市の郡和子市長(64)も特別表彰「賛辞の楯(たて)」を贈呈すると発表した。【鎌田直秀】
(2021年4月12日、ニッカンスポーツ・コム掲載)