<コロナに翻弄された人たち:2020年を振り返る>
夢はついにかなわなかった。福島商へ転任する磐城高(福島)の木村保監督(49)が、3月いっぱいで27年間の指導者生活を終えた。本来ならセンバツ決勝前日のはずだった3月30日、最後のシートノックが行われた。
開始前、甲子園用に新調された伝統の「コバルトブルー」のユニホームを身にまとった20人の全部員が三塁側ベンチ前に集合。木村監督に向けて背中を向けた。しっかりと縫いつけられた背番号を見つめながら、「いい景色だなあ。もうこれは甲子園だよな」。磐城のグラウンドが聖地と重なった。
またも3月11日、届いた悲しい知らせ
甲子園が集大成となるはずだった。
その人望、人間力、経験などが期待され、数年前から県高野連の事務局入りを打診されていた。タイムリミットは迫り、母校の監督として迎える5年目を、「最後」と決めた。
これまでの善戦するけど勝負弱い「いいチームだった」で終わらず、練習試合から徹底的に勝負にこだわり、勝つチームを目指した。昨秋の東北大会では大会中に台風19号の直撃を受けるも、たくましく8強まで勝ち上がった。文武両道、地域貢献なども評価され、つかんだ21世紀枠だった。
甲子園に向けて、いわきを出発するはずだった日に大会中止が決定した。
3月11日。
「よりによってこの日かあ」。東日本大震災を経験した者にとって、複雑すぎる思いが去来した。転任はもはや動かしがたかったが、どうしても諦められなかった。「15、16歳の子どもたちには酷すぎる。選手にこれだけ苦しい思いをさせたまま、置いて去ることはできない」と葛藤し続けた。同24日の辞令ぎりぎりまで、夏までの指導延長を模索した。しかし、かなわなかった。
同23日になって学校に選手と保護者を集めた。「念願だった、俺も行ったことがない甲子園の切符。お前たちの頑張りによって、最高のプレゼントをいただいた」。選手たちには、甲子園で勝った後に、この言葉で転任を伝えるつもりだった。
全身を使ったノックで選手へメッセージ
平三中3年の夏、近所の平球場で、磐城が若松商を下し、甲子園出場を決めた姿に憧れ入学。1年秋に正捕手となったが直後に退部。理由については何度尋ねても、「自分が未熟だったので」と多くを語らない。エネルギーをもてあまし、近所のバッティングセンターで気を紛らわせる日々。翌春、監督が交代し、仲間から「戻って来いよ」と声を掛けられ、頭を下げて部に戻った。
復帰後は1年生と同じ雑用をこなしながら、先輩に認められようと必死だった。背番号12で臨んだ最後の夏は初戦敗退。出番は来なかった。「もっとやりたかった。不完全燃焼だった。でも、もうできない。だったら指導者として甲子園を目指そう」。東京電機大では野球部の東京新大学連盟の2部昇格に貢献するなど活躍。得意科目だった数学の教員免許を取得し、福島に戻った。
最初に赴任したいわき光洋定時制では、「ヤンチャ坊主たち」(木村監督)の軟式野球部を「もうひとつの甲子園」神宮球場まで、あと1勝のところまで導いた。須賀川の監督時代には校内にある、OBの円谷幸吉さんの銅像を毎日、眺めた。「やっぱり忍耐が大切だなあ」。刻まれた「忍耐」の言葉をずっとウエアや手袋に刺しゅうで入れてきた。11年の東日本大震災では地割れなど大きな被害を受ける中、夏はノーシードで快進撃を続けたが、決勝でエース歳内(前阪神、現四国IL・香川)擁する聖光学院に敗れた。あと1歩だった。
49歳にしてぜい肉のない、170センチ、65キロの小柄な体を全身使って放つノックは、選手へのメッセージがつまっていた。控え捕手の柳沢諄(2年)は「今までで本当に一番高く上がって、一番捕りやすいノックでした」と涙ぐんだ。最後の1球、涙でかすむ目で打ち上げた岩間涼星主将(3年)への捕邪飛は、コバルトブルーの空に高々と舞い上がり、計ったかのように本塁ベースの1メートル後ろでミットに収まった。完璧なラストショットだった。「保先生と一緒に夏を戦えないのは本当に悲しい。1球1球の重みを感じた。あのノックに応えられるよう、夏に強い磐城を復活したい。今こそ耐え忍んで、夏に花を咲かせたい」と恩返しを誓った。「忍耐」はしっかりと受け継がれた。
最後のあいさつで「お前たちは本当に日々成長した。見ていてもたくましくなっているのを感じたし、俺もお前らと一緒に成長させてもらった。最後の夏に向けて、今度は全部勝たないと切符はとれない。絶対そんな簡単なことじゃない。必ず、間違いなく壁にぶち当たる。でもお前たちなら、今を乗り越えれば、壁を乗り越えることができる」とエールを送った。
同じ数学教諭の夫人からは「ジェットコースターのような人生だね」と言われ、ちょっと前向きになれた。「いつまでも未練たらたらではいけない。時は動いているし、選手は前に進む。高校野球が大好きでここまでやってきた。これからは福島の高校野球発展に微力ながら尽くしたい」と、気持ちを切り替え第2の人生を歩み出す。最後にやっぱり聞きたくなった。「先生にとって甲子園って何ですか?」。しばしの沈黙の後「うーん、何なんでしょう。甲子園とは本当にあこがれで、絶対に行ってみたいところでした。あいつらと一緒に、あの聖地で試合をしたかった」。【野上伸悟】
(2020年4月4日、ニッカンスポーツ・コム「野球の国から」)