<高橋大輔の再出発(3)>
フィギュアスケート高橋大輔(33)の新しい挑戦が始まりました。五輪3大会に出場した元世界王者は19年12月、全日本選手権でシングルとしての最後の演技を終え、20年からアイスダンスへ転向します。
WEB連載「高橋大輔の再出発」の最終回。トップ選手となってから現在までの歩みに迫ります。
五輪目前で訪れた悪夢
悪夢は突然訪れた。高橋にとって2度目の五輪が、1年4カ月後に迫っていた。08年10月31日、練習でトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を着氷した時だった。体勢を崩しながら耐えようとした瞬間、右膝に強い負担がかかった。
「なんかおかしいな…」
1度は靴を脱ぎ、違和感を抱きながら練習を続けた。だが、数時間後には歩けなくなった。右膝前十字靱帯(じんたい)断裂、半月板損傷。五輪前年のシーズン全試合欠場を余儀なくされた。
11月の手術当日、故郷の岡山・倉敷市から京都まで母の清登が駆けつけてくれた。母は、息子の喪失感を察していた。「姉ちゃん」と慕ってきた初瀬英子は、同じ時期に娘を出産。右膝の具合を心配したメールには、こう記されていた。
「娘の出産を担当してくれた先生、たまたま大輔を取り上げてくれた先生だったみたい。大輔ももう1回、ゼロからやり直しだね」
それでも簡単には立ち直れなかった。年が明けると、五輪は1年後に迫っていた。
3月にはバンクーバー五輪の日本男子出場枠を懸けた世界選手権が、米ロサンゼルスで行われた。世界の舞台で戦うライバルを横目に、過酷なリハビリが続いた。理想と現実の溝を感じ、精神的に追い詰められていった。
ある日突然、行方をくらませた。
中学時代から二人三脚で歩むコーチにさえ、連絡を一切とらなかった。いつ鳴るか分からない携帯電話を、長光歌子は夜中もずっと握りしめていた。
「もう、生きていてくれるだけでいいわ…」
1週間後に連絡を入れると、長光にこう諭された。
「やめたかったら、やめていいんだよ。みなさんに謝るのは私の仕事で、あなたの仕事じゃないからね」
人生を懸けてきたスケートに背を向けても、周囲の温かさは変わっていなかった。大切な存在からかけられる言葉は、傷ついた心を少しずついやしてくれた。
もう1度、やり直す決心がついた。五輪8カ月前の09年6月、ようやくジャンプが跳べた。負傷のきっかけとなったアクセルは3回転半どころか、1回転半に40分かかった。再断裂の恐怖心-。それが、まずは乗り越えなければいけない壁だった。それでも、目標を簡単には諦められなかった。
1年半ぶりの復帰戦となった10月のフィンランディア杯。優勝を果たすと、心境の変化を公に明かした。
「五輪でメダルを取るには、日本でエースでないと取れないと思う。夢は五輪金メダル。それ(エース)が当たり前じゃないとダメ。昔は強がりで(目標を)言っていた部分があった。でも、今は自然と思える」
大けがから五輪までの時間は辛く、それでいて濃密でもあった。「もう、生きていてくれるだけでいいわ…」。そこまで思い悩んだ長光も前向きに変化した。
「復帰しても3回転が怖くて、行ったり来たり…。『あれま、これどうなるのかな』って思っているのに、『五輪で表彰台に乗れるんじゃないかな』っていう変な絵も私の頭の中にあったりしてね。何の根拠もないのに、不思議でした」
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